「ブータン農業の父」と呼ばれる西岡京治さんは、
1964年、コロンボ計画農業指導専門家として
海外技術協力事業団(現・国際協力機構(JICA))から
ブータンに派遣され、彼の地の農業発展に貢献されました。
その功績から1980年、
1964年、コロンボ計画農業指導専門家として
海外技術協力事業団(現・国際協力機構(JICA))から
ブータンに派遣され、彼の地の農業発展に貢献されました。
その功績から1980年、
ブータン最高の栄誉であるダショーの称号を
外国人としてただ一人、国王から授かったことは、
よく知られています。
ダショーとは、「最高に優れた人」の意味です。
外国人としてただ一人、国王から授かったことは、
よく知られています。
ダショーとは、「最高に優れた人」の意味です。
しかし、1992年、帰国の直前、
当地で受けた歯の治療から敗血症を引き起こし、
59歳の若さで亡くなられたことは、
本当に残念なことでした。
その西岡夫人、里子さんは、私の大学の先輩です。
その西岡夫人、里子さんは、私の大学の先輩です。
2016年12月、私たち同窓生有志は、
東京、東北沢にある母校クローバーハウスにて、
里子さんから直接、ブータンでの
貴重なお話を伺う機会を得ました。
貴重なお話を伺う機会を得ました。
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初めてお会いする西岡里子さんからは、
率直で飾り気のないご性格という印象を受けました。
この日のお話と、
その後の多少の機会を通して伺ったお話から、
私は、西岡さんご夫妻の、
このブータンという国に来たからには、
人々のために少しでも役に立つことをしたいという
素朴な情熱が、素直な現地の人々の心に直接届いた結果、
ご夫妻が現地の生活に溶け込んでいかれたのだと
理解しました。
ご夫妻が赴任されたパロの写真。 写真はこちらから。https://etours.world/bhutan/ |
西岡さんが農業指導を始めるまで、
ブータンでは野菜も栽培されていましたが、
自給自足の目的が主で、
換金作物としてではなかったようです。
市場がなく、物々交換が一般的だったブータンでは、
換金作物としてではなかったようです。
市場がなく、物々交換が一般的だったブータンでは、
ご夫妻には、当初、
異なった環境下でのご苦労が続いたそうです。
そのような状況下、着任一年目の西岡さんは、
赴任されたパロで何が育つのかを熟慮し、
白菜、キャベツ、大根、トマト、キュウリ等の播種を
試みられたされたそうです。
技術的には、畝をたて、深く耕すことを指導され、
それらの野菜は、彼の地で良く育ったとのことです。
それまで小さかったブータンの大根が、
大きく育つようになりました。
大きく育つようになりました。
そして、その後は、
アスパラガス、ナス、ピーマン、カリフラワーと、
栽培品種を広げられていったようです。
このような西岡さんの努力と
当時の国王の農業への強い関心と理解、
それに、ブータンの人々の勤勉さと
新しいものを取り入れようとする排他性のなさが立派で、
主食の米あるいはトウモロコシに、肉中心のおかずといった、
当時の人々の食生活が次第に、
野菜をより多く取り入れたものへと
当時の国王の農業への強い関心と理解、
それに、ブータンの人々の勤勉さと
新しいものを取り入れようとする排他性のなさが立派で、
主食の米あるいはトウモロコシに、肉中心のおかずといった、
当時の人々の食生活が次第に、
野菜をより多く取り入れたものへと
変化していったようです。
ティンプー棚田の風景。国土の大半が2000mを超え、
標高が高いにもかかわらず、ブータンの緯度は北緯26度で
沖縄と同じそうです。写真は、西田里子さんから。
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赴任当時から、盛んだったようですが、
西岡さんは、苗代にもみを撒く、並木植えにするなど、
日本式栽培技術の導入に力を入れ、改良されました。
身の丈に合ったやりかたで、現地の人々との交流を深め、
ブータンの紹介に努めていらっしゃいます。
その里子さんは、ブータンのホテルに泊まると、
ビュッフェの食事は、ほとんどが野菜料理で、
野菜の煮込みなど、昔食べなかったものが並ぶ。
そのなかにアスパラガス、カリフラワーなどがあると
感慨深げにお話されました。
西岡さんがなさったことで
良かったと思うことを挙げるとしたら、
他に何でしょうかと私が伺うと、
ブータンの、ものを大切にする国民性に触れられ、
部品があり、修理可能で無駄にならない
農業機械の導入に道を開いたことではないでしょうかと
おっしゃいました。
写真は、西岡里子さんから。 |